アメリカン・ヒーロー対決 中島彩 (内容に言及するので、まず映画を見たい人は読まないで下さい) 今春公開のヒーロー映画を2本見ました。 ひとつは『バットマンvsスーパーマン』、もうひとつは『シビルウォー/キャプテンアメリカ』。片方はDCコミック原作、もう片方はMARVELが原作。DCコミックに所属するヒーローチームはジャスティス・リーグと称されていて、MARVELはアべンジャーズって言われています。それはそれは奥が深くてコアなファンがいる世界なのだけど、前提として、私はコアなファンでもなく、その道に通じてるわけでもない。そして、ファンの方たちからしたら「あのキャラクターのあの事実を知りもしないくせに!」みたいなことになってしまうかも知れないけれど、そんなことはいいのです。 まずこの2本の映画の主題には共通するところがあって、それは「複数のヒーロー(自分の正義とすることを実践する人)がいて、それぞれの思うところの正義がかみあわないときに、どうするのか」ということ。 『バットマンvsスーパーマン』では、まずスーパーマンが世間からの槍玉に挙げられます。悪者を倒してくれるのはありがたいけど、その時にビルを壊しちゃったり、巻き添えを食らわしちゃったりで、結局彼がしていることは独りよがりなのではないか?と、逆風が吹くのです。スーパーマンは自分で正しいと思うことをやってきたので、アイデンティティの危機です。一方でバットマンは、正義を自称してもいませんが、私怨に発するところから町に巣食う悪者たちを追いつめています。それはちょっとやりすぎなくらいで、成敗した悪者にコウモリ印の焼印をいれてしまったりする。そんなわけだから、スーパーマンとバットマンはそりが合わない。 映画の前半は、己の信じるところを超人的なパワーで実践するスーパーマンと、ひとりの超人的なパワーを持つ人間が単独で行動し、大勢は救っても犠牲者を伴うスーパーマンの存在に疑問を持つ世間(裁判所)、私情を絡めながら暗躍し世間を救うこともあるバットマンの、3者の対抗がメインです。 『シビルウォー/キャプテンアメリカ』でも状況は似ていて、いかにも誠実なあんちゃんタイプのキャプテン・アメリカや、理性的で技術面や資金面でも下支えをする縁の下の力持ちアイアンマンはじめ、複数のヒーローたちはすでに団結しているわけだけど、彼らの正義の実践には常に少数の犠牲がつきまといます。超危険な生物兵器や、侵略者から大きな地球は守ったけど、その時にビルも壊しちゃったよね、倒壊したビルの下に、生来有望な若者が巻き込まれちゃったよね、というわけです。そもそも、ヒーローは強くなればなるほど、悪者たちも凶悪化してないか、なんて話もあったりする。 そこで世界の首脳たちは、彼らの活動を国連の監視下に置き、必要に応じて出動を要請するべきだと考えるのです。 アイアンマン派のヒーローたちは、自分たちの存在をパブリックにも認めてもらうためにはそれに従うべきだと考える。キャプテン・アメリカ派のヒーローたちは、責任や判断をパブリックに委ねることに不安を感じ、常に自分で判断したいと考える。 なのでこちらも、アイアンマン派とキャプテン・アメリカ派と世間の3者の対抗がメイン。 中盤以降で、2つの映画は少しずつ描き方が変わってきます。 『バットマンvsスーパーマン』で象徴的なのは、裁判所のシーン。スーパーマンは正義といえるのか、ついに彼は法廷に呼び出されたのです。どんな質疑応答が繰り広げられるのか!?と、思いきや、裁判は結局行われることがありませんでした。第4者によって、裁判所は丸ごと爆破されてしまうのです。そしてじわじわと黒幕的第4者の存在が大きくなってくる。その正体は己の力を過信してしまった若者であり、なおかつ彼は地球外生命体やら化学やらを駆使して、モンスターを作り上げる。その絶対的な悪役を前に、スーパーマンとバットマンは、結局手を組み、絶対正義となります。 とはいえ簡単に手を組むわけではなくて、スーパーマンとバットマン、どっちが強いの的な戦闘シーンがあるわけだけど、和解のきっかけになったのは、スーパーマンとバットマンのお母さんの名前が一緒だったっていう、とっても偶然によるところ。説得力がない。 一方、『シビルウォー』でも対話を一度諦めてしまい、飛行場でのシーンにてアイアンマン派とキャプテン派とは、全面対決となります。しかし決着はつかず、キャプテン派は密かに追っていた第4者らしき絶対悪が潜むであろうロシアへと飛び立っていく。アイアンマンも、その黒幕的な存在に気づき、彼らの後を追いかけます。ところが、ロシアで待っていたのはモンスターでも絶対悪でもありませんでした。第4者である元大佐は、かつてアイアンマンの正義活動によって父親と妻子を失われた被害者でもありました。そしてモンスターによってアイアンマンたちを倒すことではなく、アイアンマンの両親を殺したのは、キャプテンの友人だったという、秘めていた過去を暴くことで、彼らが自滅するきっかけを与えるだけなのです。 アイアンマンとキャプテンは再び闘うことになりますが、決着はつきませんでした。 (一応、アイアンマンの方が先に動けなくなりますが、キャプテンに「その盾を作ったのは俺の親父じゃねえか、返せよ」と言って痛み分け。) しかし、元大佐を前に、父親を殺害され復讐に駆られていたあるヒーローは、「みんな復讐に駆られている。俺は復讐を放棄する」と、憎しみの連鎖を断ち切ることを宣言します。 また、アイアンマンとキャプテンは物別れに終わるけれど、ラストにはキャプテンの方から「別々の道を歩こうとも、何かあれば駆けつけるよ」と携帯電話が送られてくるのです。 そんなわけで、『バットマンvsスーパーマン』が結局悪役を出しちゃって、旧来の強いヒーローvs地球を脅かす悪者の構図に収まっちゃったのに対し、『シビルウォー』は絶対正義を作らず、和解の余地を残すし、対話を続けること、復讐の連鎖を断ち切ることを描きました。 最初の主題に戻ります。 「複数のヒーロー(自分の正義とすることを実践する人)がいて、それぞれの思うところの正義がかみあわないときに、どうするのか」 ところで、私は福祉職についていて、それはヒーロー的な仕事では絶対になくて、賃金をもらって利用者にサービスするというだけなのですが、でも生身の人間が生身の人間を相手にする以上、これをすることが相手にとって良いか悪いか、ということを考える場面が多くあります。それは職員同士でもかみあわなかったり、第3者の意見を必要としたりすることもあって、それでも最終的に良かったかどうかの答えはきっとでることがない。 けれど、対話を続けることが必要だし、どちらが正しいとか善をなそうとかいう話でなくて、「困ったことがあって、自分にできることなら手伝うよ」的なことが、福祉職の前提なのかなと思っていて。 そんなわけで、行き詰まった仕事帰りに見るなら、『シビルウォー』をオススメします。 それに、そんな主題を描くのにも、『シビルウォー』は圧倒的な映像的軽さがあって、映画っていいよね。 追記 『バットマンvsスーパーマン』で残念だったのは何と言っても裁判所の爆破で、話し合いや、第3者の視点をまるまる切り捨ててしまったこと。もういっそ、スーパーマンが法廷で問われる、っていう『それでも僕はやってない』位の感じの裁判映画にしたらどうか、って思った。けど、そんな映画はきっとそれほどの興行収入は見込めないだろう。自己言及しすぎちゃって、映画が作れない状態になっちゃったって落ちになる。映画は娯楽でもあるべきだし、少なくとも『スーパーマン』の名のつく映画なら、なおさらだ。 『シビルウォー』では裁判こそ行われていなかったものの、悪役かと思われた元大佐は実は裁判官でもあった。あくまで裁定者としてではなく、彼がいることでそこが示談の場ではなく、客観性をもって真偽を問う裁判所となる、という意味で。その場合、観客は陪審員ともいえるかもしれない。 『シビルウォー』は娯楽アクション映画らしさをもって、ポップに軽快に、私が想像していたよりもずっと楽しいヒーロー裁判を描いてくれたのだ。