よそみ余所見

余所見は、見たり聴いたりした事と、それについて考えた事などを書くウェブサイトと紙の雑誌です。

第1号(251版)
2018年1月28日 21時27分27秒 発行

連載記事 

掲載日:2018-01-06 14:43:26

【連載記事】ベルサイユの天子の闇、日出処のばらの影(山本握微)

ベルサイユの天子の闇、日出処のばらの影 山本握微

 最近はあまり本を読む気分にならないが、実家に帰った時は、寝入る前に適当な漫画を読む。主に姉が残した少女漫画で、僕も小さい頃から既に繰り返し読んでいるから、頭を使わずにすむ。と言ってもさすがに飽きたので、今までなかなか手が出ず未読のままだった「ベルサイユのばら」(池田理代子)を読むことにした。

 姉が中学生の頃、宝塚狂いで「ベルサイユのばら」の舞台映像を繰り返し観ていた為、歌や固有名詞、せりふの断片、概ねの話は、同じ部屋にいた僕にも刷り込まれている。姉の影響で少女漫画は昔から好きだが、「ベルサイユのばら」については舞台版の絢爛な印象が強く、特に読みたいとは思わなかった。宝塚はやはり少年の趣味としては難しい。しかし後々、古典的名作には違いないので何時かは読みたいとは考えていた。

 斯くしてこの夏このタイミングで、特に必然性のないまま「ベルばら」を集中して読んだのだけど、やはり面白かった、です。宝塚で強く印象づけられた「おめめキラキラむかしの少女漫画」はさぞクドかろう、と覚悟していたけど、全くそんなことはない。快男児オスカルの気っ風良さ、町娘ロザリーの可憐さ、スールスルと入ってくる。

 で、読み進める内に「日出処の天子」(山岸凉子)を思い出した。以前、山型浩生の古い書評を読んで興味を持ち、こちらは何年か前に、満を持して読んだのだった。

■ CUT 1994.04 Book Review / ニヒリズムと孤独と「もう一つの道」。
http://cruel.org/cut/cut199404.html

 舞台は6世紀の日本と18世紀のフランス、場所と時間に大きく差はあるが、まあざっくり「歴史もの」に違いなく、物語の中心を為す人物がトランスジェンダーであること、なども共通する(オスカルは、トランスどころかジェンダーに縛られまくっている、ともいえるけど)。

 この二つの漫画については最早語り尽くされているので今更何を言っても、なので逆に「浅読み」……実家の本棚にたまたまあったから暇潰しに読んだだけでも得れたこと(但し前述の山形浩生の書評を援用しつつ)、について、ここに書きとめておく。

 それは要するに、人生(?)には「公」と「私」2つの領域があるナー、ということ。

 人は、まず「公」……社会、制度、生活、政治、理想、役割、使命、倫理、慣習に従って奔走し、それぞれの成果を出す(又は出せない)。かくて革命は成就し、高貴な人々は尊厳を全うし、雨乞いを成し遂げ、夢殿を建立し、政治の実権を握る。

 一方「私」……とは、この二作の場合、即ち「愛」で、とにかく愛が歴史と政治の隙間を縫うようにして各方面に乱れ飛び、その多くは(多く「公」が阻害する形で)達成されない。この点が、時代物でありながら、どちらも王道の「少女漫画」たる所以かもしれない。

 この「公私」は、表裏や右左といった単純で対称的な二大分類、ではない。

 まず、1)登場人物たち自身には通常、公私の区分は容易に見分けがつかない。当たり前だが、普段から公私の区分をわけて考え行動しているわけではない。

 そして、2)全体における公私の「割合」が大きく違う。人は通常、多くの時間と思念と行動を「公」のために割く。「私」が差し込む量感的な割合は少ない。意図できる「公」と違って「私」は多くの偶然性(仮面舞踏会の出会いや、水浴びの目撃)よって発生するため、自ずと稀少となる。

 それでいて、3)結局、世の中で大切で重要なのは「私」(つまり愛)の方「だけ」である。「公」の積み重ねは「私」の足しにもならない。逆に「私」があれば「公」は実はどうでもよい(「貧しくとも愛があれば」)。

 だが、1)の通り、その区分は自明ではないので、4)「私」の欠落を埋めるためにも人々は「公」の営みへと駆り立てられる。アントワネットは心の空白を埋めるために社交会で遊び散財する、という描写があるし、厩戸皇子も全能でありながら、毛人の愛を得るために裏で策略を尽くし、結果的には深い孤独に陥る。そして再び(所詮は無駄な)「公」へと向かわせる(本来は関心が無いはずの俗世の政治に深く介入もする)。

 そして、5)「公」は合理的であり、その実現はたとえ困難なれど、道筋は明確に示されている。一方、「私」は不合理で突発的で運命的で、操縦不可能であり、その性質は「公」に属さないだけでなく、逆に「公」と相反する。愛は常に(!)背徳的である。

 少女漫画の場合「私」は主に「愛」だけど、同様の構図は少年漫画他にも無くはない。それは「血縁」だったり「絆」だったりする。例えば現代少年漫画の代表「ワンピース」(尾田栄一郎)の主人公、ルフィはどうか。ビブルカードを通じて(義理だけど)兄のエースがピンチと最初に知った時は「エースにはエースの冒険がある」と割り切り、放っておいた。これは海賊である二人の「公」的判断で、潔い。しかし、いよいよエースが処刑されそうになったことが報道されると、ルフィはあらゆる危険を冒し、離散した仲間(「公」的な冒険によって得た)との再会より優先して、別チームの海賊であるが「私」にとって大切なエースの救出に向かう(そして失敗する)。

 他には「信念」が相当するか。「ドラゴンボール」(鳥山明)では悟空ら戦闘民族サイヤ人の「より強い敵と戦いたい」という信念(私)により、何度も敢えて強敵を逃し、地球(公)を巻き込んだ窮地に陥る。「あしたのジョー」(ちばてつや,高森朝雄)では、拳闘と力石徹の亡霊(私)に取り憑かれ、無理な減量を経て、パンチドランカー症状を発症し、最後 は「真っ白に燃え尽きる」。紀子によって示された平和な道(公)を無視して。

 (例が恣意的ですが)こうした展開はジャンルに限らず多くあり、物語を駆動する根底にもなれば、時に読者をイライラさせ、批判をも招く。(公として)万事丸く収まりそうなところ、(私として)『やっぱり行きます』と書き置きだけ残して去り、「あのバカっ!」と周囲から心配され、案の定一人で勝手に窮地に陥るような。このパターンは漫画等で非常に多くある。

 以上。……で? この構図は繰り返す通り定番、「よくある話」であり、別に新しい発見でもない。公より私が大事。ともすれば「モノより思い出」程度の、わかりきった話だ。また漫画独特の話でもない。「本当に大切なことは、実は全体の中の僅か」ということであれば、それこそビジネス書や自己啓発書でよく言及される「パレートの法則」(80対20の法則。成果の8割は、全体の2割に過ぎない優秀な要因が生み出す云々)なんてのもある。

 そこでもう一作、同じく実家の本棚にあった漫画「海の闇、月の影」(篠原千絵)を読んでみる。これも特に意味は無く繰り返し読んでいる。ホラー・サスペンス少女漫画の名作で、僕も読み始めた頃は面白く読んだ。が、最近になって読み返すと、人気連載継続の都合(殆どの日本の漫画が持つ構造的宿命だが)によって絶え間なくホラー演出がだらだらと続く「だらしない物語」(ひたすら「哀れ流風はとらわれの身、方や克之は絶体絶命、果たして二人の運命や如何に? 続き次第はまた来週!」で読者の興味を繋ぎとめる、街頭紙芝居的な)の典型とも思うようになった(それ故に面白いのだけれど)。

 しかし「ベルサイユのばら」「日出処の天子」に横たわる「公私」の枠組みにあてはめると、少し違って見える。まずは以下(前2作に較べれば知名度が下がるので)あらすじ。

 物語は主人公・流風(るか)に、憧れの陸上部の先輩である克之が、告白するシーンから始まる。
 しかし流風には双子の姉、流水(るみ)がいた。顔は勿論あらゆる点で二人は似て、克之への想いも同じだった。遠慮する流風を、流水は自身の気持ちを抑えて応援する。
 その翌日。流風と流水ら陸上部一行は、部の送別旅行で海岸を散策中、偶然にも古い墳墓に迷いこむ。そこで古代より封じられた謎のウイルスに感染、居合わせた他の部員は全員死亡、双子だけ生き残るが、その作用で強大な超能力を身につけることになる。
 こと流水にとって大きな変化は超能力だけでなく、妹を思って封じ込めていた悲しみが増大し、途轍もない憎しみへと変わったこと。流水は超能力を駆使して、流風を殺害し、克之を得ようとする。流水はウイルスを他者へ感染させて操る能力があり、使い方次第では世界をも支配できる。かくて話の規模は大きくなり、天才科学者ジーンをはじめとした多くの第三者も介入し、そして死んでいく。
 時に共通の敵を巡って、手を組むこともある流風と流水。二人してウイルスを治療し平常に戻り、和解する可能性も探っていく。しかしそれも失敗し、多数の人を殺害してきた流水を庇いきれなくなった。決別する二人は最後、命をかけて直接対決、流水は敗れ、流風の手によって、幕がひかれる。

 様々に流転し、ひたすら引き延ばされる物語だが、この「公私」の構図で解析してみれば……この物語は序盤どころか、最初の一頁目で完全に終了している。克之の愛は最初から流風に向けられ、それは最後まで覆らない。実は何も引き伸ばされていない。

 物語は流水の死で終わる。埒外の流水が、埒外で暴れて死んだ、だけ。克之も流風も死なないし変わらない。たとえ物語が、流水の意図通り流風を殺して世界を支配しても(「私」の欠落を埋めようとする「公」の積み重ね)、克之の心(「私」が望むもの)は手に入らない。物語がだらだら続くどころか、実は何も始まりさえしないのがこの作品の正体ではないか。

「流風、あんたは全ての美徳を手に入れた。優しさ、素直さ、愛情。だからせめて世界くらいあたしが手に入れる!」

 最終回、悲痛な流水のせりふが象徴する。流水の言う「美徳」は「私」の領域だが、しかし流風は別に「手に入れた」わけではない。それは運命的に流風に備えられ、流水には無かった。代償として流水は「世界」という「公」を手に入れようとするが、その無意味さと虚しさは、物語中で流水も自覚している。

 「ベルサイユのばら」に戻れば、流水に相当するのはご存知フェルゼン伯爵だろう。色んな意味で、元より叶わぬ「私」(王妃アントワネットとの愛)のために、あらゆる「公」的な行動に奔走する。アントワネットの死後は冷徹な政治家として振る舞い(これも「私」の欠落による「公」の領域にある)、最後には民衆に撲殺される。

 「モノより思い出」「パレートの法則」と大きく違うのは、公私という領域の対象と、その割合である。「公」の領域は広く、「私」の領域はごく僅か。パレートの法則が8対2とするなら、公私は9対1か、或は99%と残り1%か? ……無論、そのような具体的な数値は無い。が、まさしく「公」と「私」で考える通り「世界の広さ」と「自身の小ささ」がその割合比とも考えられる。

 意図的にコントロールできる(可能性がある)方が外部である「公」の領域であり、全く理屈も操作も及ばない方が「私」の領域である、というのは皮肉かもしれない。

 「オルタナティブ(代替)など無い」というのが少女漫画の世界観かもしれない。今の世の中、例えば二、三十年程度の期間で考えても結構良くなっていて、個人の多様性がそれなりに認められつつあり、且つ自己責任ばかり求められるわけでもない。なので、困っていれば様々な対案や代案が用意される。 しかし、そんなものには意味が無い、という感性。運命的に訪れる、ただ唯一の代替不可能な「私」が無ければ。

 或いは、時列的に考えれば、こうした旧来の少女漫画の感性を反省・対抗するために、オルタナティブが叫ばれたと考えるのが妥当かもしれない。では最近の漫画はどうか。例えば映画化で再び大きな話題となった「この世界の片隅に」(こうの史代)。ここでは中身でなくタイトルだけで考えても、これも尚「この世界(公)」と「片隅(私)」の構図が活きている。「この世界の片隅に うちを見つけてくれてありがとう」見つけれらた主人公のすずは、物語のラストで一人の戦災孤児を、今度は見つける。戦中という過酷な「この世界」での創意工夫もこの作品の見所だけれど、勘所はやはり、その「公」世界との対比となる偶然、故に稀少で脆い「私」性となっている。

「(……)これ以降、日本史の教科書に登場する出来事は、すべてがつけたしでしかない。法隆寺も、奈良や平安の世界も、そしてこの平成の御世の現代日本ですら。
(……)王子が最後に落ち込む深いニヒリズムと孤独は、そのまま今の日本を色濃く染め上げている病でもある
(……)男たちには、自分を包む孤独すら見えていない。だがそうした男たち、女たちが、幾世紀をかけて今の日本を築き上げてきたのだ。」
( CUT 1994.04 Book Review / ニヒリズムと孤独と「もう一つの道」 )

 「日出処の天子」読んだだけでは、山形浩生の書評におけるこの壮大な射程については理解できなかった。「ベルサイユのばら」を経て少し理解できたような気はする。かくて歴史上の人物たちの奮闘により(勿論、数多の問題はあるけれど)傷つきにくい社会、は目出度く誕生した。それはもしかしたら、「私」が欠落した人々による、虚しい代償行為「公」の営み、つけたし、程度のこととして。しかしこの、良く出来た傷つかない社会をしても、「私」の運命を突如として不合理に左右する天災や事故と、制御も予想も理解できない誰かの「私」が暴走するテロだけは防ぐことはできない。


 不意にこの構図を確認することになり、今夏、思わず深いダメージを受けてしまった。いや、この構図自体は従前より認識していたのだけれど、僕が採用したのは「公」こそに重きを置く方だった。それだって、別に進んで選び取ったわけじゃない。様々な経緯と屈折によって、時間をかけて折り合い、ようやく持たざることについては諦めをつけて、そうした中でも持ち得ることについて、僅かながら選んできたもの。それは例えば、芸術や文化を通じて、感性と理知により世界と交流すること、その手立てを創意工夫すること。その背景にある倫理を考察すること。稚拙ながらでも、それならば、できなくもないし、とても大切なことではある。偶然でなく、自分の意思ひとつでできるからこそ、と。そうしたここに至るまでの苦しみも、結果としては必要な営みだった、として一種の美化までなされている(その挙句が、高校の時分より用いる「握微」という名前である)。

 が、そうして慎重に切り分けた一切合財も、区分を変えれば所詮は「公」の領域に含まれる、無意味な代償行為に過ぎない、ということか。これが人生の約半分を費やした後で、ようやく気付いたことである。何が間違っていたのか。いや、だから間違えるも間違えないも何も無い、というのが、私の内にあって私ではどうしようもない「私」の領域である。勿論、寝しなに読んだ「ベルばら」一冊だけで、突如この境地に至ったというわけでは無いのだけれど。


余所見